生きている。

十一日、地震があった日は、母が無事ガンの手術を終えて退院する日だった。九時に病院へ迎えに行き、十一時には家に着いていた。それからその日の夜勤勤務にそなえて私は昼食後に仮眠をとった。
そして二時四十六分、長すぎる地震でベッドから出、一階に降りたら食器棚のゆれを母が押さえていた。棚自体は倒れないようにしていたが棚に入っている食器が扉からどんどんばらばら落ちてきていた。それをやめさせようとして結局二人で押さえつつ私の膝はがくがくしていた。すぐに電気が止まった。家を片付けたり防災ラジオや懐中電灯やらを探し出すのにいくらかの時間を費やし(そうだ、市の放送で断水の情報があり水を溜めまくったのもこのとき)、母を一人置いていくことが嫌だったが、早めに職場へ行こうとした。甘かった。停電で全信号が停止していた。これはたどりつけんと思い、職場の電話、同僚の携帯にかけるがつながらず、いつもの交差点を右折するのに二時間。もうむりくり入り込む。が、まったく進まない。五分で三十センチくらいか。その間も余震は凄かった。道路はもうカオス。緊急車両が渋滞のなかサイレンを鳴らし駆け抜けていく。(この最悪の渋滞時の記憶は揺れより怖く、今も信号が点いている道なのに運転がとても怖い)。
家から五分のドラックストアまで三時間かかった。もうあきらめてその駐車場に車を置き、公衆電話から同僚の携帯にかけ(公衆電話のありがたみがよくわかった)、来なくてよいと上長に言われたので、申し訳ない思いのなかホッともしつつ、真っ暗の中歩いて家に戻った。とても自分の部屋では寝られず(本が散乱。クロゼットの扉がたわむほど)母と二人和室で布団を敷いて寝た。市からもらったとき「はあ?」と馬鹿にしていた防災ラジオがあって本当に良かった。次の日の朝、公衆電話からでも職場の人間につながらない。車で行こうにも信号が止まった道を運転する自信がなかったので待機。車を取りに戻ったドラックストアの駐車場で長蛇の列を見た。慌てて並んだその瞬間から被災者生活が始まった、そう実感した。結局二時間並んだが入店前にバツ印を出され、今度は大型スーパーまで車を飛ばした。新聞を配っていたのでもらった。ラジオの情報では分からなかった宮城の津波の写真を見て泣く。四時間並んで買いだめを済ませ家に戻ると昨日は会社に泊まったという父が帰還。そして都市ガスが使えなくなっていた。携帯はこの日の夜充電が切れた。十三日は市役所の給水に五時半から並んだ。十四日の四時に電気のみ復旧。上長に電話してものすげえ怒られる。こういうときは這ってでもこいと。申し訳ないという思いが吹き飛び、言いたくなかった母の病気のことを告げると黙った。「母を一人にしておけなかったので」くそっ 絶対言いたくなかった本心だったのに。母よ、悪者にして、ごめん。
連絡のとれなかった友人や親戚に電話やメール。電気ってすごいな。テレビで宮城の映像を見てショック。泣く。
職場は十七日から行ったが断水も続きまるで仕事にならず。できる範囲の掃除、シフト調整など。
そして今日。いまだ風呂に入っていない。しかしなんとか三食を摂り生きている。今回嫌というほど自分の見通しの甘さや弱さを痛感した。あのときああすればよかったとか凄く考えた。被害の大きい県のニュースを見、無力さに落ち込む。
でも私は生きている。そのことの意味をよく考えよう。今もたくさんの人の思いや両の手に励まされ続けている。
スーパーで絶望的な列に並んでいるときラッドの絶体絶命を聴いていた。昨日寝る前にアジカンの海岸通りを聴いたら泣けて泣けてしょうがなかった。体が音楽を求めている。不謹慎だと言われようが構わん。いつか、ライブに行きたい。