ポツドール『おしまいのとき』

というわけで。書き始めるにあたってだいぶ日がたってしまった理由=観劇日(9月21日)に日帰りで上京したが台風で帰れなくなり新宿でなんとか泊まる羽目になったほうが衝撃的で・・・
都会での帰宅難民の怖さって田舎のレベルとはまた異なり(当たり前だけど)正直こういう目に遭うくらいなら芝居なんて観にいかんでも、って思いまでしたけど、結局観て良かった。台風来るの判ってて出掛けたの自分やし。
しっかし観たのがポツで良かったよ。見終わったあとのどんぞこ感も従来どおり。
米村さんの負のカリスマ性が凄かった・・・。

いったいなにが「おしまい」なのか。
タイトルからして明らかにこれから不幸なことが若い主婦に起きる・・・という冒頭で三浦さんはまず一つ目のスイッチを仕掛けます。それは彼女の子供が川遊び中に溺れて、結果亡くなるというもの。ここまではなんとなくセットから察してました(舞台に子供は出ないだろうし)。
でも本当の不幸はここから速度を上げます。ついてこれないほどマンモス凄いです。
子供を亡くし抑うつ状態の主婦がある人間によって性暴力を受け、それを強引に「アリ」なものにするところから「それ」は始まります。「人が壊れていくスイッチが目の前で押される」この苦痛シーン、五分くらいやってたんじゃないか。彼女は突っ込みどころ満載なまでにロジカルな人間で、オリジナル論理(狂気のレベル)で次々やってくる(見ようによっては自ら引き寄せている)不幸をさらなる不幸で粉砕しようとし最後の最後に破綻を迎える。これはそういう話です。
それにしてもドシリアスな場面(しかも夏の昼下がりだったりする)で現実のスズナリの外が暴風雨っていうのがある意味シュールでありました。

閉じ込められた井の頭線の中で芝居の意味を考えつづけていました。
主婦にとっての「異界」の人が彼女の生活域を踏みつけていく様が本当に凄かった。親切を売りつけてくる隣人はまさに異常。これ、3.11以降の世界で三浦さんはいちはやく偽善というものを芝居に落とし込みたかったんじゃないかと思う。
あと特筆すべきはもうひとりの「異人」である電気工を演じた米村さんの凄み。そして駄目人間みたいに見えたのに聖母にも見えたその彼女(妊婦)の人物像が興味深い。彼にとって一番耳の痛いことをバンバン言います。当然お腹の子供は彼の暴力により亡くなるであろう、と予想してはいましたが、問題はラスト。
不幸に不幸を上塗りしていったあげく破綻を迎えてはじめて主婦は「私は人間でなくなりました」とか細い声で受け入れる。
今思い返しても震える場面。
上下に分かれた舞台装置で、同時進行で主婦と電気工はそれぞれ自分を支えていた論理に見放され、窓から飛び降りようとする。これで終わりかと思ったが底意地の悪い三浦さんはその上を行く。
廃人のような電気工は(すごいことに多分)聖母的存在の彼女を自分の舎弟に委ね、はじめて「人間になる」のです。
おしまいのときという言葉ははじめて、とイコールである。血まみれの生まれなおし、のような。
エグイけど底光りする希望のような。

寝室では自分が殺した血まみれの夫の遺体のある荒れ果てた公団の一室で動物のように「おなかがすきました」と思わず漏らす主婦はやはり人間なのです。
どうしようもないけど生きてる。死ぬより地獄でも。
まるで踏み絵のような人間賛歌だなと思いました。